かあちゃんの裏側

50を越えたオバサンが、子育てやら人生やら喋ります。

夫の認知症

夫が、突然、認知症になった。
翌日にはだいぶ戻っていたが、自分がやったことを一つも覚えてない姿は衝撃だった。

娘も驚いて衝撃を受けていた。
二人でこそこそ相談しながら夫を医療機関に受診させるべく立ち回り、機嫌を取り、「行く」と言わせて、やっと安心した。

翌日、昼食取らずに病院に電話を掛けて予約をしたが、携帯電話を落とした娘の尻拭いも重なり、仕事では上司の身勝手な注文に振り回され、私の心はささくれまくった。
帰宅後、夫にも娘にも厳しい言葉をかけた。
夫も娘も、私が優しくしてくれない・下手に出ないので、腹を立てた。
夫は、切り札のつもりで病院受診を「行かない!」と怒鳴った。
私は静かに「分かりました」と答えた。


もう、良いや。
夫がフワフワととんちんかんな言動重ねるのを見た時、生活費を工面することの困難さが恐怖であったが、別居して一人で暮らすことがもう望めなくなることも怖かった。
売り言葉に買い言葉だけれども、この先ずっと、ずっと、夫の機嫌取りするなんて無理。
話の通じない相手になっていくなら尚更。

私は、一人で暮らすために頑張ってきた。
それを救いに毎日耐えてきた。
それが手に入らなくなる位なら、どうだって良い。

明日、キャンセルの電話をする。
家族の尻拭き係は、もうたくさんだ。

誕生日祝ってもらったら笑わないとならない

自分の誕生日について発信すれば、身バレしそうで怖いから避けてきた。

が、過ぎた誕生日のために娘と夫がケーキを買ってきたので、どうにも不愉快なのでここに書き込む。(扱いがTwitter)


私が奇異なのは承知しているが、どうしてケーキを買ってもらったら喜ばなくてはならないのだろう。
「誕生日を祝ってもらえたら嬉しいに決まってるでしょう?」な、聞く耳無し派の方々はさようなら。
日々人格を否定されながらも、独立採算で生きていく能力が備わらず、また子育て中途では脱走が叶わず、やむなく同居している身に
「ケーキを買った健気さを誉めて」か?
「ケーキを食べたら機嫌直すでしょう」か?
「いつもありがとう」か?
それ、お前らの感情の押し付けだよな。
毎日毎日、お前らを呪いながらお前らの機嫌をとってる私に、より一層の機嫌とりをしろと求めているよな。

自分の好物さえ出してもらえるなら、機嫌直してブヒブヒ食べるお前らを見ていると、いつも私は食欲が失せるんだ。一緒にするな。

家族だと思っているなら、私の話を理解しろ。まずそこからだ。
学校の勉強も抱えすぎた部活も気が向かないからと放置して、暗い投稿見て"なった気"して"自分は死んだ方が良い"とかほざいてないで、前を向け。逃げるな。
確定申告も在宅勤務のための家具の購入でも、そもそも育児相談でも、考えるのを面倒がってちんぷんかんぷんな事をして、私に後始末させるな。
二人して、「痩せたい」と言いながら、不必要なカロリーを「我慢できない~」って流し込んでいる。互いに許しあってるけど、互いに不健康に向かって加速しているだけ。


でも、私は喜んで見せなくてはならない。

未熟な未熟なお子さんに、"他人に施しを受けたら、感謝する。"という姿勢を、お手本しなくてはならない。でなければ、将来彼女が他人に施しを受けた時に、素直に「ありがとうございます」を言えなくなるからだ。

私がどう感じたか、どう考えているのかは、無関係になる。

そして、私は彼女の手法を無理矢理肯定させられる。
「誰かに嫌な目に遭わされても、すぐ水に流して付き合い続ける。」

…私、もう、あんた達が嫌いなんだけど。

"昔は皆、子どもに寛容だった"について

相変わらず認知凸凹娘に振り回される日々の中、精神科の先生が書かれた本を読んで少し落ちている。



ご高齢とは言えないかもしれないが、明らかに私よりお歳を召してて、かつ専門家としてひとかどの方の書かれた本なので、何か我が家の現状を改善できる策が見つかるかと思って読んでいる本のうちの一冊。
曰く、
「昔は、乱暴者であったりおっちょこちょいだったりする子は、クラスに必ず一人や二人は居たものだ。それでも、今のように皆と合わせるように矯正しようとする大人など居なかった。どうして今の社会はそういった個性豊かな子どもを受け容れることができないのか。」

多分、50歳台の私は、この文中の「今の社会」の内に入るのだろうと思う。著者の先生は私の親の世代の少し下だと思う。
精神科の中でも、薬による治療よりもこころの動きを重視すると仰るこの先生なぜ、昔の親世代が放置した問題が今になって顕在化していることに目を向けようとしないのか。
私の親も、ちょっと変わった子、我の強い子の一人と一人だっただろう。自分の生きたいように生きて、産んだら育てなきゃならないことを考えずに子どもを産んで、今に至るまで自分優先で生きている。ゴミ屋敷で無職の息子と一緒に、世間を蔑んで恨んで生きている。逃げ出した私は、生き抜くために苦しんで考えながら生きている。

「昔は良かった」ではない。昔、感覚過敏であったり認知が不得手である子が、もがいて暴れる様を放置して大人にさせてしまったから、今の社会がある。暴れる子・ミスの多い子の周りの大人が、その子にに器質的な問題が有ることに気付いて、自分の感覚が自分以外の人間とどう違うのか気付かせる療育体制を早く構築しなかったから、今になっている。

人生の中で学問に没頭できる時間が取れた先生の周りには、生き延びるために何でもしなけりゃならない人間なんて、気配も無いのだろう。キレイなキレイな狭い世間だけ見て、懐古に浸るのは、老害に近いな。

過食症になった娘

ずいぶん久しぶりです。

今日は、どうしても吐き出したいけど誰にも共感して頂けない話を、ここに書き置きたくなりました。

これから私が書く事は、誰かにとって酷く傷つく内容かもしれません。でも、私はここを読むあなたの親ではないし、私の娘はここを読むあなたではありません。



タイトルの通り、私の娘は過食症になったようです。
食欲が抑えられないそうです。
摂食障害者の家族に向けた文章を探すと、本人が何をしても受け入れることを伝え、安心させるようにとの指導でした。

いやいや。

子どもじみた反抗で酷く侮辱され、裏切られて以来、私は娘を信頼出来なくなりましたよ。
そもそも、貧乏で苦しんだことの無いお子さまの、ぬるい悩みにしか見えてません。

子どもを中心にして、甘えたいだけ甘えさせて育てたのが、悪く結果したように感じます。


家の中の食べ物を食べ尽くして、小遣いでお菓子を買っていたようですが、先程コンビニ弁当の容器を見つけました。そんな物が買えるほどの小遣いではありません。
万引きでもしたのかと考えています。
もしそうなら、それを隠匿したり容認することはしたくないですが、店への謝罪訪問や学校への報告をすることによって、更に悪い方向に進む気もします。



親の愛情を確かめたくて、極端な行動に出る。
そんな甘え方は迷惑だなと思いますし、親に甘えるという事自体が、私には気持ち悪いです。

思春期に入って、自立に向けて親に逆らい始めたなら、もう、親が甘えさせてあげる必要は無いでしょう。
「親が、親である前に人間だ」という事を認識して、自立していって欲しいです。

親の反応が本人の求める内容でなかったからと言って、親を批難するのは甘えだと思います。




私が、
娘を許したら、
全部、
丸く収まるとしたら、
私は、
どこまで、
自分を殺して、
親、
で、
居なければならないのだろう。

そんなのが、
子育ての、
正解、
なのだろうか。

自分のミスが許せない

だいぶ久しぶりの投稿です。
今回は気持ちのまま書いてしまっているので、語尾が乱暴です。




自分のミスが許せない。
だから娘のミスも許せない。

娘はうっかり者。発達障害グレー。
「うっかりをとがめず、ハードルを下げて、広い心でサポートしましょう」と、本に書いてあった。
だから娘のミスをとがめないよう努めているけど、サポートする私自身のミスは、やっぱりモヤモヤする。


今日の事態

会社携帯忘れて出勤。

落ち込むし調子狂う。

家に帰っても、自分の事で精一杯。

娘の塾が、冬期講習で早始まりだった事に気付かず、塾から電話が来てから慌てて出発させた。

受験生の娘、1コマ分の授業をふいにした。


グレーの親の苦悩

うっかり者の親は、うっかり者じゃダメ。
だってうっかり者をサポートする余裕が無きゃならない。
だってどんなアクシデントが有ったって、それを子どもの事にまで影響させちゃいけない。
今日は小さなミスの連鎖だったけど、これからも小さなミスで済むとは限らないから。
自分のミスは自分が謝って対応していく(自分で抱え込む意味ではなく)から良いけど、
娘のミスは、「本人に反省を促して自分で対応できるようにする」が出来ないなら、親がサポートしなくてはならない。


周りに謝るのは別にいいけど、ミス自体やミスへの対応が、今後に全く生かされず繰り返されるのがむなしい。
「もったいない。」
「無駄になった。」
と、感じる。


私もグレーだからなのか

私がミスを引きずってしまうのは何故だろう。
私が自分のミスを許せないのは何故だろう。


娘は引きずらない。
ミスをしても平気で、ミスを繰り返す。


私はそんな娘が許せなくて、たいそう強く叱っていたから、娘は時々奇妙なところで「怒られるから、絶対、嫌」と、拒否する。
話を聞くと、叱り過ぎたなとも思うが、そこじゃないんだとも思う。
結局、ミスを叱っても、対策につながらないことが分かる。


私も、うっかりした時に親に叱られていたのかは、わからない。
認知が凸凹だったから、信じられないような奇行はやらかしていたと思う。
世の中がはっきり見えたのは働き始めてから。
沢山のミスを指摘されたし、迷惑をかけたり、大損したりした。
でも、自分のミスを、強く恥ずかしいと感じるのは、元々の気質ではないかと思う。
誰かに怒られたから、怖いから、ミスが嫌なのではなく、強く強く残念だと感じるから。


ミスを許したらどうなのか

ミスを引きずらなかったら、楽になるだろうか。
自分のミスに再発防止策を講じることなく許せたら、私は楽になるだろうか。
再度同じミスをしても、楽しく笑えるだろうか。


ミスをいつまでも気にするか、ミスしても気にせず忘れるか、それは両極端ではだめで、ほどほどの「丁度いい」所を探さなくてはならない問題なのかもしれない。


または、「自分自身の人格」の問題ではなく、人間一般の「ヒューマンエラー」の問題と捉えて対策を考えるという、切り離しが必要なのかもしれない。









Twitterに書き込もうとして長文になったのでブログに書いたが、TLを読み始めたら時間を溶かすところだった。
そうやって、忘れていくのが当たり前なのかもしれない。
…それじゃだめだよね。

「母のぬくもり」

家事をしていると、書きたい事がわき上がってくるのですが、書ける時には忘れてしまっているのが、記憶と平行思考が出来ない人間の辛いところです。


さて、「母のぬくもり」です。
私にはこの言葉、全くわかりません。因みに、私の実母はまだ生きています。

甘えることができない

そもそも、「甘える」という行為が、気持ち悪いです。
甘えたいのに出来ないのではありません。
社会に出てから、多くの人に「あなたは人に甘えられないからダメなのよ」と、言われました。
(そういえば、この言葉は女性からしか言われたことがありません。)
他人に甘えたくなくても、一人で生きていけるものではないので、居心地悪く感じながら頭を下げてお願いし、お礼を伝えます。
甘えるのが怖いのかもしれません。あてにして、逆に取り返しがつかなくなる不安を感じます。

周りからは、『他人に甘えるのが屈辱に感じるので無理をしている』ように見えるかもしれません。
確かに、甘えなくてはならない瞬間には自分の不甲斐なさを感じますが、普通に過ごしていて後ろから「何故甘えないの?!」と、声を掛けられると、どこに甘えポイントが有ったのか分からなくて困るのが実情です。

歳とともに、社会においてはコントロールを手放すことができるようになってきましたが、家庭内では上手くできません。

母と一緒に居ると落ち着かない

母に限らず、他の生き物と一緒に居ると、気になって落ち着きません。

私が、生まれて最初に意識したモノは、母の機嫌でした。
具体的に何があったのかは分かりません。
ただ、私は、母が機嫌を悪くするのを、とても恐れていました。
母が機嫌を直すにはどうすれば良いのか、それだけが私の全てでした。

母が私に意見を求めた時、私は母の中にある答えと一致した答えを出さないとなりませんでした。
母には、娘が自分と同じ考えをする人間であることが、何より必要でした。

順次、他の家族や近所の子どもを認識していきましたが、母に対する緊張を、他の人間にも向けるようになっただけです。
私にとって他人と母の区別は必要ありませんでした。

誰かが不機嫌であることがとても嫌で、反射的に機嫌をとるので疲れます。
自覚するまでは、自分は明るく社交的に応対するのが得意な人間だと思っていました。
今では、一人になれないと辛いし、大勢の中に行くのは前日から緊張します。

私の子どもが赤ん坊の頃、久しぶりに実家に行く旨をママ友に言ったら「思いきりお母さんに甘えて来てね」と笑顔で言われて、ゾッとした時、自分がはっきり異常だと確信しました。

娘に甘えられるのが嫌

「母のぬくもり」を分からない私が、自分の子どもにそれを与えるのは、努力が必要でした。
子どもが自我を持つ前の時期には、安心できる相手が必要であることは、わかっていました。
「大好き」「生まれて来てくれてありがとう」などの言葉がけや、抱っこなどの触れあいも大切にしました。

私が、自分の子どもにそういった応対ができるように、「子どもらしい子ども」に育つように努めました。
(恐らく、私は、母にとって可愛くない子どもだったと思います。)

今、私の娘が思春期になって生意気な言動をとるようになったため、どうにも我慢出来なくなりました。
自分を好きになれない私が、「自分の遺伝子を継いだ子どもだから」という理由で自分の子どもを好きになれるはずもないです。

単純に、誰かにとても失礼な態度をとられて、怒りを覚えずにいられるでしょうか。
自分が育ててきた人間ならば、育てた自分への落胆で身が裂けそうです。

そんな相手にハグを求められても、愛しい気持ちで応えてやることはできません。


もう、親に依存せずに生きる力を身に付けてもらう機会が来ていると思うしか、今の私にはありません。

家電修理にまつわるエトセトラ

またもや、更新間隔が開いてしまいました。
今回は、この夏の我が家の家電修理にまつわる種々の出来事を吐露させていただきます。

1.扇風機の故障

異常を発見した夫に、メーカー問い合わせを依頼。

→症状を正確に伝えることが出来ず、製品を2往復させた。
メーカーへの態度は尊大。配送に関するクレームまでつけていた。
「言ってやったから!」と自慢する夫、役立たずぶりと、小物ぶりを発揮。

2.洗濯機の故障

発見者は私なので、長期保証中の家電店に私が連絡。時期的なものなのか、お盆に入るためなのか、最短で10日先の出張修理と、言われる。
やむを得ず、日常使う服やタオルのみ、手洗いで乗り切ることにする。

→その旨を夫に伝えたら、「俺のは後で良いよ」と答えたので、10日以上先で良いのか?と確認したところ、「そういう意味じゃない。」と返事。気遣い夫のフリだけだったらしい。

→夫、お盆に帰省する間に寝具の洗濯が出来ないことにキレる。

→手洗いでは大量の夏衣料を洗濯しきれないので、出来るだけ洗濯物を増やさないように生活する私と娘。相変わらず、帰宅後に着替えて就寝前に風呂に入って着替える夫。
なぜ、2時間の着衣が必要なのか分からない。帰宅後すぐ風呂に入れば良いだけ。

3.冷蔵庫の故障

朝、突然冷凍庫の扉が開かなくなった。
その上の冷蔵庫と野菜室は、麦茶でビシャビシャ。
どうやら、昨夜こぼした麦茶が冷凍庫まで落ちて凍り、冷凍庫全体を本体にくつけてしまったらしい。
そういや、深夜に夫が麦茶を飲んでた。(私は朝方まで仕事していた)
→一旦コンセントを抜き、冷凍庫が解けるまで待ち、扉が開いたら麦茶の海を掃除。
夫、都度「なんでコンセントを抜くんだ」「なんで野菜室の扉を開けっぱなしにするのか」と、キレる。
そして今後は麦茶を冷蔵庫に入れる前に20秒横にしてみるというルールにしたら、文句タラタラ。



本当に、使えない夫だと思いました。