かあちゃんの裏側

50を越えたオバサンが、子育てやら人生やら喋ります。

「母のぬくもり」

家事をしていると、書きたい事がわき上がってくるのですが、書ける時には忘れてしまっているのが、記憶と平行思考が出来ない人間の辛いところです。


さて、「母のぬくもり」です。
私にはこの言葉、全くわかりません。因みに、私の実母はまだ生きています。

甘えることができない

そもそも、「甘える」という行為が、気持ち悪いです。
甘えたいのに出来ないのではありません。
社会に出てから、多くの人に「あなたは人に甘えられないからダメなのよ」と、言われました。
(そういえば、この言葉は女性からしか言われたことがありません。)
他人に甘えたくなくても、一人で生きていけるものではないので、居心地悪く感じながら頭を下げてお願いし、お礼を伝えます。
甘えるのが怖いのかもしれません。あてにして、逆に取り返しがつかなくなる不安を感じます。

周りからは、『他人に甘えるのが屈辱に感じるので無理をしている』ように見えるかもしれません。
確かに、甘えなくてはならない瞬間には自分の不甲斐なさを感じますが、普通に過ごしていて後ろから「何故甘えないの?!」と、声を掛けられると、どこに甘えポイントが有ったのか分からなくて困るのが実情です。

歳とともに、社会においてはコントロールを手放すことができるようになってきましたが、家庭内では上手くできません。

母と一緒に居ると落ち着かない

母に限らず、他の生き物と一緒に居ると、気になって落ち着きません。

私が、生まれて最初に意識したモノは、母の機嫌でした。
具体的に何があったのかは分かりません。
ただ、私は、母が機嫌を悪くするのを、とても恐れていました。
母が機嫌を直すにはどうすれば良いのか、それだけが私の全てでした。

母が私に意見を求めた時、私は母の中にある答えと一致した答えを出さないとなりませんでした。
母には、娘が自分と同じ考えをする人間であることが、何より必要でした。

順次、他の家族や近所の子どもを認識していきましたが、母に対する緊張を、他の人間にも向けるようになっただけです。
私にとって他人と母の区別は必要ありませんでした。

誰かが不機嫌であることがとても嫌で、反射的に機嫌をとるので疲れます。
自覚するまでは、自分は明るく社交的に応対するのが得意な人間だと思っていました。
今では、一人になれないと辛いし、大勢の中に行くのは前日から緊張します。

私の子どもが赤ん坊の頃、久しぶりに実家に行く旨をママ友に言ったら「思いきりお母さんに甘えて来てね」と笑顔で言われて、ゾッとした時、自分がはっきり異常だと確信しました。

娘に甘えられるのが嫌

「母のぬくもり」を分からない私が、自分の子どもにそれを与えるのは、努力が必要でした。
子どもが自我を持つ前の時期には、安心できる相手が必要であることは、わかっていました。
「大好き」「生まれて来てくれてありがとう」などの言葉がけや、抱っこなどの触れあいも大切にしました。

私が、自分の子どもにそういった応対ができるように、「子どもらしい子ども」に育つように努めました。
(恐らく、私は、母にとって可愛くない子どもだったと思います。)

今、私の娘が思春期になって生意気な言動をとるようになったため、どうにも我慢出来なくなりました。
自分を好きになれない私が、「自分の遺伝子を継いだ子どもだから」という理由で自分の子どもを好きになれるはずもないです。

単純に、誰かにとても失礼な態度をとられて、怒りを覚えずにいられるでしょうか。
自分が育ててきた人間ならば、育てた自分への落胆で身が裂けそうです。

そんな相手にハグを求められても、愛しい気持ちで応えてやることはできません。


もう、親に依存せずに生きる力を身に付けてもらう機会が来ていると思うしか、今の私にはありません。